モドル

 
  リンチェイの兄が語る貧しい時代

  1963年4月26日、まだ世の中が困難に満ちた時代。とある北京の普通の労働者家庭に、5人兄姉の末っ子としてリー・リンチェイは生まれた。貧困の時代、無邪気な子供たちの姿を見ている両親の心は複雑だった。ご飯を満足に食べさせることさえ困難なのだ。最も負担が大きいのは父親だった。しかも、信じられないことにリンチェイがまだ歩けない赤ちゃんの時に父親が病気でこの世を去った。
  リンチェイの兄が昔を振り返りながら言った。「あれはとても苦しい時期だったよ。母親がしっかりしてくれたおかげで僕たちは乗り越えることができたと思う。彼女はバスの切符売りをして子供5人とお年寄り2人を養ってきた。彼女の中には中国女性特有のねばり強い精神が備わっていた。」彼らの人生に影響を与えたのは、その母の姿だった。
  貧しい家の子供は、はやく物心がつくと言われる。リンチェイも例外ではなかった。小学校に入学したばかりの時、彼が毎日着ている洋服は全部兄や姉の古いお下がりだった。”女のズボンを穿いている”とよくからかわれていたが、彼は母に文句一つ言わなかった。しかし内心ではいつも悲しい思いをしていた。そして「絶対に誰にも負けない」と心に誓った。彼は誰よりもまじめに勉強し、そして母や先生の話をよく聞いた。彼の成績はずっと優秀だった。
(以下〜全国武術大会で5回連続チャンピオンになるという、驚異的な記録をつくる〜省略)

 
    top↑
  <少林寺>の主役に大抜擢

  18歳の時から彼の人生は大きく変わった。彼の最大の趣味は舞台で劇を演じることだった。暇な時間があれば舞台劇の練習に励んでいた。これはあくまで趣味に過ぎなかった。しかし、一世を風靡した映画<少林寺>の主役に抜擢された時、この趣味が大いに役に立った。
  1981年、総制作費120万元というこの映画の撮影が始まった。リンチェイと他の武術部の仲間達は、毎月30元の謝礼をもらっていた。撮影は朝早く行われ、終わるのはいつも夜中だった。毎月30元の謝礼がリンチェイの初めてのギャラだった。彼はいつも真面目に撮影に臨んでいた。戦うシーンの撮影中、偶然にも相手の矛がリンチェイの額に刺さってしまい、血が止まらないという事故があった。スタッフは慌てて撮影を中止させようとしたが、リンチェイは何事もなかったように、撮影隊について来た医者に傷口を縫ってもらい、すぐに撮影に入った。真夏の炎天下の撮影でも、真冬の氷水の中での撮影でも、彼は懸命にやった。
  <少林寺>の撮影は、昔のカンフー映画特有のもったいぶった撮影方法を一切とらなかったので、観客は本物の中華武術を観ることができた。映画が公開されると、たちまち国内で「カンフーフィーバー」や「リー・リンチェイフィーバー」が巻き起こった。中国以外の所でも大ヒットした。当時の北京語映画の売上記録を破ることになった。香港だけでも売上が1600万ドルに達した。当時にしては、本当に信じられないくらいの数字だった。

 
    top↑
  幼なじみと過ごした20年間

  80年代中期、アメリカで拳法を教える仕事をして、妻の黄秋燕と2人で暮らしていた。その昔、あのブルース・リーもアメリカで拳法の先生をして生活していた。その後、彼は香港に戻り、自分の道を切り拓いたという。初めてアメリカで暮らすリンチェイにとって、たくさんの困難があった。言葉がわからないリー夫婦は、毎日4時間英語を勉強しなければならなかった。
  妻である黄秋燕もまたあの武術部の一員だった。彼女も武術が達者であったが、気の荒い人ではなかった。その逆で、彼女はやさしくて、成熟で、しかも恥ずかしがりやでもあった。武術部にいたときは、男女の細かい感情を持つ余裕はなかった。毎日顔を会わすので、自然に仲良くなる。普段は、冗談を言ったり、ふざけあったりして、ほとんど兄弟みたいな関係だった。リンチェイも特別扱いはしてなかったそうだ。黄秋燕はとても美しい人であった。彼女のまわりにはいつもたくさんの人が集まっていた。
  記者会見などで2人が並んで立つと、周りが夫婦みたいだとはやしたてる。既に20代で多感な時期の2人が、そんなはやしたてを聞いたら困惑しないはずがない。そして、傍にいるときも、歩く時も一定の距離をあけていた。リンチェイも恥ずかしがりやであった。リンチェイが有名になるにつれて、彼のプライベートや恋愛について知りたがる人が増えてきた。特に黄秋燕との関係を聞かれることが多かった。その当時、2人はまだお互いに意識していなかったが、黄秋燕との関係を聞かれると、恥ずかしがりやのリンチェイはどう対処すればいいのかわからず、顔を真っ赤にしてただ突っ立っているだけだった。
  黄秋燕もまたこのことについて言い出す勇気はなかった。2人の今の関係を壊したくなかったからだ。彼女はリンチェイがとても好きだった。しかし、控えめな彼女はこの気持ちを胸の奥に閉まっていた。彼女がリンチェイを好きになった一つ目の理由は、彼の性格の良さだった。二つ目は、彼は若きヒーローだったからだ。映画に出演してからのリンチェイは、ハンサムな外見と、見事な武術の腕前でたくさんの少女の心をとりこにした。ラブレターも山積みだった。いつしか、リンチェイと一緒に暮らすことが黄秋燕の夢になった。しかし、伝統的な考え方をもっている黄秋燕は、自分の気持ちをどうしても言い出せなかった。リンチェイと2人きりになったり、一緒に写真に写ったりした時は、彼女はいつもうれしそうだった。
  年が経つにつれて、リンチェイは映画出演や武術の海外公演などで忙しくなって、黄秋燕と接する時間が少なくなっていた。黄秋燕からのわずかなアプローチもリンチェイは気付かずにいた。それでも彼女は辛抱強く待っていた。やがて、黄秋燕の思いがやっと通じるときがきた。名誉のためでもなく、利益のためでもなく、黄秋燕はただ一途にリンチェイを想っていた。このカップルが一緒になるまでに、実に20年もの歳月が経ったのだ。2人はたくさんの人から祝福された。スクリーン上の理想のカップルが、本物のカップルになったので、長い間話題になっていた。
  黄秋燕とリンチェイの新婚生活は落ち着いていて、幸せだった。彼女にとって、リンチェイと結婚できたことが何よりもうれしいことだった。彼女は言った「私と彼は、20年間一緒に武術学校で勉強してきたので、自然に恋心が芽生えました。新婚生活は平凡で、現実的で、ロマンティックではなかったけれど、彼はとてもやさしいので、一緒にいるだけでとても幸せだった」と。

 
    top↑
  黄秋燕との離婚

  結婚して間もない頃、新しい道を拓こうと、若い夫婦はアメリカへ発った。アメリカについたばかりのリンチェイは、ひたすら家にいることが多かった。夫婦の仲は依然と円満だった。この時期のカンフー映画は、アクションシーンでワイヤーを使うことが多くなってきた。武術を習ったことのない俳優でも、映画の中では、武術の達人になることができた。80年代の後半になると、本物のカンフーが売りであったリンチェイは、だんだん映画界から忘れかけられていた。時代が変わったのだ。
  彼がアメリカでひっそりと暮らしている時、ツイ・ハーク監督もアメリカで映画製作について勉強していた。彼らはすぐに意気投合し、ツイ・ハークはたびたびリンチェイの家に行っては映画の話をよくしていた。そして、ついに2人は手を組むことになった。1988年、リンチェイは<中華英雄>、<龍在天涯>の撮影に入るため、香港に飛び立った。
  リンチェイと離れ離れになった黄秋燕は、頼る人がいなくて、心細い日々を送っていた。その後、女の子を出産したことによって、やっと気持ちを落ち着かせる事ができた。毎日子供の世話をしたり、家のことをしたりと主婦業に専念していた。やがて、時間が経つと、黄秋燕とリンチェイは、2、3週間に一回しか連絡しなくなった。しかも電話でちょっと話すだけだった。
  離れることが多くなって、夫婦の間に壁がふさがっていた。撮影を終えたリンチェイはアメリカの家に帰ると、黄秋燕の前ではいつもの自分を装って、不安を隠していた。敏感な彼女はすぐにそれに気付いた。既に冷え切っていた愛情を取り戻すこともできない。この家族を結んでいるのは責任感だけだった。やがて、再び香港に戻ったリンチェイは電話で「離婚しよう」と言い出した。それを聞いた黄秋燕は、耐え切れなくて、電話の中で泣き崩れた。
  黄秋燕は、離婚に同意した。リンチェイは彼女に傷を負わせた罪を償おうと、自分のすべての財産を彼女に与えた。離婚当初、悲しみや絶望に明け暮れた黄秋燕は、毎日教会に行ってないていたという。それから長い年月が経った。彼女は悲しみから立ち直ることが出来た。今でも、彼女はリンチェイと友達関係を続けているという。20年間の絆は、簡単に消せないのだろう。

 
    top↑
  利智(ニナ・リー)との結婚

1999年9月14日、元ミスアジアであるニナ・リーとロサンゼルスで結婚届をだした。香港でニナ・リーは”利美人”と称されていた。彼女とリンチェイは<龍在天涯>で共演したことをきっかけに知り合ったのだ。”利美人”の美しさと気質にすっかり彼は心を奪われてしまった。しかし当時、既に結婚していたリンチェイにはどうしようもなかった。1991年、リンチェイ前妻が離婚し、”利美人”と自然に付き合うようになった。週刊誌で彼と”利美人”が交際しているという報道があったが、信じる人は少なかった。リンチェイは自分のプライベートについて一切語らない男だった。しかもこのことに関しては、マスコミにこんなことはありえないと何度も言っていた。彼女も、リンチェイとは会う機会がほとんどないから交際の可能性はぜったいないと全面否定していたらしい。
  ニナ・リーと寡黙なリンチェイは誰もが羨むベストカップルだった。時間が経つにつれて、2人の絆はどんどん大きくなった。彼女は芸能界という華やかな世界を捨て、キャリアウーマンとなってずっとリンチェイの傍にいた。リンチェイもまたニナ・リーだけを見ていた。他の女優と噂になったことは一度もなかった。芸能界では珍しいことだ。彼はニナ・リーがいるだけで満足だった。リンチェイはある約束をした。10年後に今の気持ちが変わっていなければ、必ず結婚して、一生の夫婦になると。10年間の試練を経て、1999年9月19日、2人はロサンゼルスで挙式した。

 
    top↑
  リンチェイとニナ・リーが破局の危機?

  リンチェイは香港でたくさんの友人を持っていた。その中で特に仲がよかったのは”伝統的な美しい女性”で有名なロザムド・クァンだった。ロザムド・クァンとリンチェイは<黄飛鴻>シリーズで恋人役を演じていた。共演期間が長かった2人は当然仲がよく、食事に行くのも普通のことだった。しかし、週刊誌は見逃さなかった。たまたま2人が食事に行ったところを目撃され、噂になった。
  この噂を耳にしたニナ・リーは激怒し、何も言わずに荷物をまとめて、上海の実家に帰ったそうだ。あとで、ニナ・リーがいないことに気付いたリンチェイは、急いでニナ・リーの実家に謝りに行ったという。このことをきっかけに、リンチェイはもう他の女性スターと多くは話さなくなったという。”恐妻家倶楽部”の一員となったリンチェイ。しかし友人の目からは妻を恐れているよりも尊重しているように見えた。”恐妻家”に対して、リンチェイの解釈はこうだ。「たくさんの女の子は恋愛に対して、不信感を抱くことが多い。信頼できる男性を探すのはとても難しいかもしれない。結婚しても安心感がないという女性も多いようだ。だから夫として最大の責任は妻に安心感を与えることだと思う。」
  現在、リンチェイは給料を全部ニナ・リーに預けているという。経済面では妻に心配をかけたくないそうだ。へそくりは絶対にありえないという。芸能界でも珍しいケースだという。

 
    top↑
  リンチェイ語録

「人生と言うのは、山登りみたいで、頂点に着けば、必ず降りる時が来る。そして人生はまた長い長い映画みたいな感じだ。ここ数年の間に、世界中がアメリカで作った香港風のアクション映画を好きになっていた。しかし、数年後には、世界中がフランス映画に注目するかもしれない。どこの世界もそうだと思うけど、ヒットが永遠に続くはずがないし、誰だって頂点に20年間もいられることはないと思う。世の中は循環しているんだ。過去の20年間の僕の人生の中でいい時もあれば、悪い時もあった。頂点に立つことも、深い谷に落ちることもかまわない。気にしないようにしているんだ。そういう風にいつも冷静になるように自分に言い聞かせているんだ。人間は自分では気付いていないかもしれないけど、毎日何かを学んで生きている。そして新しい物を追求している。僕にとって最大の敵は自分自身なんだ。自分に勝つことで僕は満足感を得られるんだ。」

 
 


<これらの内容は「万人迷」より部分抜粋しています>

 
 

モドル